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Sunday, January 9, 2005

抱き犬 


I just got done digesting a very interesting (and very verbose - kudos!) comment that my Japanese friend Ei-Ichi posted up on my blog regarding this little bit of nothing that I wrote the other day about, among other things, the transformative potential of studying a language.

Anyway, I liked what he said so much, so I just thought I would bring his comment up from the depths to the top of the page so that everyone (who can read Japanese - his comments are way too subtle for any web translation page) could enjoy it. Oh, I added a few pics here and there just to spice things up.

So, thanks again for all of your time and your creative energies, Ei-Ichi...and by the way, don't listen to Momus when he tells you that we don't understand Japan. Let him have his 'chimerical Nippon'...in spades! You and I will keep it real, dog!

Bowwowwowyippyyoyippyyay,
Bobby "Heavy" D.
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Ei-ichiです。

ロバートの "the language will master ME" 体験は面白いね。それについての考察は、今後もさまざまな言語を学びながら、ぜひ続けてほしいと思う。哲学的な側面から言うと、ぼくは以前にも少し話したとおり、ヘーゲルとラカンの理論を使って現代日本人の自我構造を分析しようとしている。



ラカン Jacques Lacan (1901-1981) は、「われわれの自我の形成はシニフィアンの連鎖と関連している」と言っている。つまり、言語というのは、個人の意志によって自由に組み立てたり分解できたりするレゴ・ブロックみたいなものではなくて、それ自身が互いにつながろうとする、ある「まとまり」とか「慣性」の力を持っている、さらに言語がもつそういう力がわれわれの自我に影響を与える、ということだ。だから、われわれが言葉を話しているときには、ある意味で、言葉に「話させられている」ということが言える。



パース C.S.Peirce(1839-1914)も別のアプローチから似たようなことを言っていて、彼は「私の言語は私自身の総体である」、つまり人間とは言語である、と言っている。こうしたラカンやパースの思想を総括して、ウンベルト・エコ Umberto Eco(1932-)は、「人は話していると信じているときでさえ、実は彼が用いるもろもろの記号を支配している規則によって話されているのだ。」と言っている(Umberto Eco, "Segno", 1973)。

こうした観点からすれば、言語とは単なる「道具」ではありえない。新たな言語を習得するということは、新たな一つの世界観、ものの考え方を学ぶと言うことに他ならない。それは、その言語が持つ独特のリズムやイントネーション、語の連なり方の法則が与える影響のもとに自己をさらすということであって、そのことによって新しい別の人格が私の内部に形成される。こういう経験をわれわれはする。



ロバートの"the language will master ME" 体験は、上記ラカンやパース、エコの指摘した、言語はそれ独自の自律性をもつ、という理論とつながるところがある。哲学史的には、これは20世紀の哲学がソシュール Ferdinand de Saussure(1857-1913)に端を発する「言語論的転回」 linguistic turnと呼ばれる後戻りできない里程標を通過したのちの、思想的状況と関わっていると指摘できるけれども、ロバート自身の体験の独自性は、そうした思想史的な説明には吸収しきれない面白さを含んでいると思う。ここは大事なところだ。

ソシュール以後の欧米の言語論的論争は、構造か主体か、言語か人間か、という二元論的な論争に陥りがちだった。二元論と言うけれども、これは実は一元的な決定を志向している点で、一元論的だ。日本人のように、明治以来、日本語と英語(もしくはその他の欧米言語)を学ぶことを余儀なくされてきた立場からすると、こういう「言語か私か」という一元論的な議論は、本心からなじめないところがある。事態はもっと重層的ではないか、われわれは複数の言語をマスターすることによって、複数の人格を使い分けているのではないか、こういう体験を多くの日本人がしているからだね。

ロバートの説明するような "the language will master ME"というのは、一元論的な論争とは無縁の、実体験に根ざしたおもしろさを含んでいる。英語のセンテンスで表現すると、"I hope the language will master ME"ということになるけれども、これには'I'と'ME'という二つの自己が含まれている。ロバートはある意味で自分が言語に征服されることを望んでいるわけだけれども、それを望んでいる自分というのは、そのときに別に保たれるわけだ。つまり、日本語に征服された自分というのがありながら、一方で、それについての自意識も保たれている。仮にここでそれらの関係を、各「言語的自我」linguistic self とそれを意識している「超自我」super self と名づけることにしても良い。その詳しい構造分析は、ここでは省くけれども、こういう言語と人格にまつわる多重性を意識した話を、ぼくが欧米人から実体験として聞くのは初めてだった。だから、ぼくはロバートの話をとても面白いと思ったんだ。



ところで、ぼくが、「英語はぼくにとって<道具>にすぎない」ということを言うときには、実はそこには単純には割り切れない思いがある。もちろんぼくは、自分自身の外国語習得の経験と、哲学的な理論を支えとして、一つの言語をよく学ぶと言うことはその言語に即した新たな人格を身につけることに他ならない、と言うことはよく理解している。要するに、英語を話すときには、英語キャラにならないとうまく話せない、ということだね。日本人の人格を保ったまま、英語を話すことは不可能だ。ぼくも、ロバートと同じように、こうした人格の切り換え(switch)をある面では楽しむ境地に達している。そうでなければ、英語を話すことができるようにはならなかったからね。

ただし、一方で、ぼくの場合には、「そうすることを余儀なくされた」という思いがつねにある。そこがロバートとはちがうところだと思う。 要するに、ぼく自身の母国語である日本語は世界的には少数派の言語であるわけで、ぼく自身が世界に通用する学者になりたいと思ったときには、否が応でも英語を習得し、英語で発信することを余儀なくされるわけだ。また、もちろん、日本人の自我構造について深く思索を行いたいと思ったときにも、近代日本人の自我構造は西洋文明の影響を抜きにしてはとうてい語れないし、西洋哲学の伝統は圧倒的に強力なものであり、その道具立てを使わずして説得力ある日本自我論の構成はまず不可能だ。ということになると、西洋哲学を否が応でも勉強せねばならず、必然的に、ドイツ語やフランス語、はてはギリシャ語、ラテン語まで学習することを余儀なくされる。これには膨大な努力が必要となるわけで、たいていの日本人はこの膨大な努力を前にして挫折する。そしてロバートも言うところの「島国根性」に閉じこもることになる。この豊かで居心地の良い日本国内でくつろぐことができるなら、なぜ厳しい外の世界に好んで出て行く必要があるだろう、となるわけだ。

こうなってくると、人格の切り換えを楽しむどころではない。どうしても、楽しむことを余儀なくされた、と言わざるを得ない部分が出てきてしまう。この「余儀なくされた」という部分を、ぼくは、自分の主体性のために、どうしても肯定的にとらえかえす必要がある。つまり、「言語習得は自分にとっては<道具>の習得に他ならず、それを使って成し遂げたい目的がある、その目的こそが自分自身だ」と言いたいわけだね。

個々の言語人格を超越して統括する主体性、いわば超自我(Super Ego)がそこで積極的に(positive)肯定される「必要」がある。なぜなら、その超自我そのものはもともと否定的/消極的(negetive)に生まれたものだから。「余儀なくされた」というかたちでね。

ロバートは、その点については正直で、「自分は母国語が世界共通語である幸運のもとに生まれたからこそ、他の言語の習得をいわば趣味として楽しむことができる」と言っている。この率直さは好意と尊敬に値する。大いに評価したいと思う。ただ、考えてほしいのは、他言語の習得や人格の切りかえを楽しむことができると言う時に、ロバートはその「楽しむことができる」超自我(Super Ego)を保持しているということだ。この「楽しむことができる」超自我は、ロバートの場合、否定的な契機で生みだされたものではないから、それはそのまま肯定されている。



そのこと自体は、なんら非難されるべきものではない。ただ、非英語圏の人間はそうした超自我の誕生を「余儀なくされる」都合上、どうしても単純にそれを楽しむわけにはいかない感情がそこにつきまとう、ということをロバートは知っていても良い。それこそが、非英語圏に住む人間が抱え込まざるを得ない自分の主体性についての倫理的な問題なんだ。こうした倫理性の問題は、実は、たとえ欧米であっても、ほとんどの国が多かれ少なかれ抱えている問題だと思う。ただ一つ、アメリカという幸運な国を除いてね。ポール・ヴィリリオというフランス人が言おうとしていたことも、そうした観点から理解できる。ぼくが考えているのは、そんなようなことだ。

ここから先は、互いに非常に厳しい(tough)な議論になると思うけど、こうした問題についてロバートと今後、じっくり、生産的に論じることができると良いと思っている。あわてる必要はない。まず、たがいの議論がうまくかみ合うまでに、しばらくいろいろと摩擦があるだろうと思う。それくらい、互いの前提としているものが異なる。 たとえば、以下は、オリジナルの「鉢の木会」(194?-196?)のメンバーの一人である福田恆存 FUKUDA Aritsune(1912-1994)という思想家が、日本の状況について語った言葉だ。こうした自意識を持ってしまっているという事実から、日本の知識人たちはつねに出発しなければならなかった。

「私たちにとつて西洋はもう伝統のひとつです。明治以来そろそろ百年過ぎてゐます。この百年を無視して、明治維新の時のやうに直すわけに行かない、どんな悪いことがあつても直すことができない。 西洋を伝統にしていかないと、この百年がむだになつてしまふのです。この百年を生かすためには、過去の日本をひとつの伝統とすると同時に、西洋の過去も伝統とする必要があると思ひます。西洋は輸入元ぢやない、日本のインテリにとつては西洋は故郷です。」(「新劇と伝統」1964年)



もちろん、上記のような考え方は、ロバートが今興味を持っている三島由紀夫の思想とは対立するね。三島由紀夫 MISHIMA Yukio(1925-1970)、福田恆存 FUKUDA Aritsune(1912-1994)、吉田健一 YOSHIDA Kenichi(1912-1977)、大岡昇平 OOKA Shouhei(1909-1988) といった文学家・思想家たちは「鉢の木会」と呼ばれる場所で、こうした問題について活発に議論したんだ。三島由紀夫は彼独自の方法で「日本的なるもの」を再興しようとしたし、福田恆存は「日本的なるもの」の虚構性、欺瞞性を問題にした。一方、吉田健一は彼がイギリス留学中に身につけたアングロ・サクソン的洗練へ向けて日本文化をたたき直そうとした。いずれも、日本的状況に対して、真剣に考えていたことはまちがいない。

ぼく自身も、最終的には、日本人は日本人的な超自我の生成を肯定的にとらえていくしかないと考えている。日本人の運が良かったところ、しかし同時に不幸でもあったことは、この国が島国であり、どんなに海外との経済的な交流が盛んになろうとも、言語的にはおおむね一つの文化圏を維持できてきた、というところだ。だから、超自我の生成を悲劇的にとらえ、ルサンチマンの温床として維持することができた。日本人独特の自虐的な日本人観はここから生じると思う。実際、本当の意味で「言語に征服される」という厳しい状況にさらされたならば、征服についての悲劇的な自意識、ルサンチマン的な超自我などというものの存在すら許されないはずだ。だから、日本人の置かれてきた状況、征服とそれについての過剰な自意識(being conquered and intense self-consciousness on it)というのは、ある意味では、ぬるま湯的な幸福な状況だったのだろう。なぜなら、本当の征服というものは、それについての自意識すら許さないものであろから(True conquest doesn't allow self-consciousness in it)。

しかし、今後、いつまでも日本国内に日本人だけの楽園を保つことはできない。日本人は、井の中の蛙であることから脱しなければならない。だから、日本人は日本人的な超自我の生成を肯定的にとらえていくしかないと考えている。そのために必要なのは、ルサンチマン抜きのマルクス主義、鍛えなおされた唯物論的認識(Marxism without ressentiment or reborn materialistic philosophy)だろうと思っている。



ただ一つ、ぼくが言いたかったのは、上記のような、消極的に発生した超自我を肯定的にしていかなければならないという、難しく解きがたい「ねじれ」があるために、日本人が日本について考える日本人論は、必要以上に難しくなってしまうと言うことだ。このねじれに取り組むと、抜け出せない自己言及の迷宮に入り込んでしまう。

実は、かつて、この迷宮を抜け出すのにもっとも簡単に利用できる明快な社会理論は、マルクス主義だったという経緯がある。何にせよ、マルクス主義は、社会によって個人が規定されているという消極性(negativity)を、階級闘争という概念装置を通すことで、革命運動という肯定性(positivity)に転化する理論だからね。抑圧されている労働者こそが革命の主体となる、というあれだ。この論理の飛躍には、日本人的な「ねじれ」の状況によく適合する部分があるわけだ。おそらく、ここに多くの良心的な日本人知識人が、左翼思想に傾倒した理由がある。言い換えれば、ニーチェが批判したように、ヨーロッパにおいて抑圧されている者の怨恨(ルサンチマン)を積極性へと転倒したキリスト教と同じような役割を、日本においてはマルクス主義が果たしたわけだ。

だけれども、彼らはマルクス主義も結局、西洋思想だ、という壁にぶち当たる。自分たちの「ねじれ」を解きほぐすのに、西洋の思想を借りなければならないという矛盾。そこに潜む危険性は、結局、われわれ自身の固有性などというものは存在しないのではないか、われわれはただ社会それ自身の弁証法的な運動の契機にすぎないのではないか、という結論に至る危険性だ。そこでは、私の、あるいは日本固有の主体性が、大文字の主体性に解消されてしまうことになる。そしてソ連が崩壊した今、そうした大文字の主体性さえ虚構であることがいっそう露わになってしまった。

この私固有の、あるいは日本固有の主体性の消失を嫌うところに、右翼思想の動機はあったのではないか。だが、右翼思想は矛盾を抱えないかわりに、欺瞞を抱えることにはならないか。それはどこかに本当の純粋な「日本的なものがある」と自らに信じ込ませる欺瞞である。そんなものはどこにもないのに。超自我というのは、諸自我の摩擦、軋轢が生み出す空虚な自我、空白としての私に他ならない。その超自我が土着のものに自らの起源を見いだそうとするのは、初めから無理な試みなのだ。最も純粋な右翼であった三島由紀夫が自決することで自分の生き方に決着を付けねばならなかったことが、おそらくそのことを示していると言えるのではないか。革命という矛盾の止揚の対局としての、自決という欺瞞の昇華。

ところで、さらにもう一つ、忘却という道がある。「ねじれ」に取り組まずに、ただ過去の経緯を忘却してポジティブな未来を論じようとする立場だ。しかし、このような立場は過去の理論の蓄積を無視することになるため、どうしても論が浅くなってしまい、説得力に欠けてしまう。そのため、決して知識人層の支持は得られない。おおかたの日本人の状況は、実は、この「忘却」という態度に一番近いのではないかとさえ思えるのだが、知識人は、自らに課した責任のために、この「忘却」という第三の道を取ることができない。

こうして日本人による日本人論は、固く解きほぐせない「ゴルディアスの結び目」へ至る。そして、ぼくが自らの哲学に課した課題というのは、まさにこの「ゴルディアスの結び目」を解きほぐすことである。

(全くの余談だが、ぼくの大好きな作家である小松左京 KOMATSU Sakyoに、「ゴルディアスの結び目」という短編作品がある。これは人間の魂の癒しの問題とブラックホール理論とを結びつけた力作だ。)



最後にもう一度くりかえすけれども、ロバートの "the language will master ME" は非常にすぐれた洞察だし、ぼくは米国人として他言語を習得しながらそのような認識にいたったロバートの柔軟な思考力、自己分析力を高く評価している。ロバートのその認識は、必要不可欠な出発点だと思う。そのような出発点からのみ、言語と自我についての深い議論へ進むことができる。言語が私を支配する、という事実に対して、否定的な感情をともなわないロバートの態度は、ぼくの思考に一つの可能性を示唆している。ロバートの経験と考察の助けを借りることで、ぼくは日本人の超自我をめぐる考察の消極的な迷路に入りこむことを避けることができそうだ、と感じている。

さっきも言ったとおり、目指したいのは、怨恨(ルサンチマン)をともなわないマルクス主義(Marxism without ressentiment)ってことだ。しかし、これが言うのは簡単でも、実現するのはなかなか難しい。なぜかというと、マルクス主義はつねに怨恨(ルサンチマン)の昇華に利用されてきた歴史があるから。過去のマルクス主義の思想と活動の歴史がぼくらを縛る。しかし、ぼくたちはもしできるなら、ヘーゲル、マルクス、アルチュセール、ラカンといった思想家の思想のもつ力はそのままに、彼らの理論を怨恨の歴史から解き放って使うことにしたい。日本という国では、そのような試みはつねにつぶされていく傾向にあるけれども、ぼくたちはとことんしぶとく、そうした傾向に抵抗して行きたいと思っている。

最後にもう一つ、福田恆存の言葉を引用する。

「自然のま々に生きるといふ。だが、これほど誤解されたことばもない。もともと人間は自然のままに生きることを欲してゐないし、それに堪へられもしないのである。程度の差こそあれ、だれでもが、なにかの役割を演じたがつてゐる。また演じてもゐる。ただそれを意識してゐないだけだ。さういへば、多くのひとは反発を感じるであらう。芝居がかつた行為にたいする反感、さういふ感情はたしかに存在する。ひとびとはそこに虚偽を見る。だが、理由はかんたんだ。一口にいへば、芝居がへたなのである。 生きがひとは、必然性のうちに生きてゐるといふ実感から生じる。その必然性を味はふこと、それが生きがひだ。私たちは二重に生きてゐる。 役者が舞台のうへで、つねにさうであるやうに。」(「人間・この劇的なるもの」1956年)



And this is from my favorite author, a prodigy of ethical sense, Orson Scott Card.
'I'd never like to be controlled.'
'Then, you have to refuse to live.'
("Songmaster", 1978)

Ei-Ichi

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