Tuesday, December 28, 2004
He translated it, but will they come?
Good afternoon, Robert here. Feeling pretty good today. This is the 年末年始 season in Japan, so I'm up to my ears in engagements. For example, last night I had a 忘年会 with some of my friends at the Hilton in Shinjuku, Tokyo. Very posh, and a nice few of the whole sweep of that understated Tokyo nightscape. This morning I slept in late (I has this wonderful dream about a ladybug's adventures) and after a quick shower, had a nice Japanese-style steak brunch while listening to the Beatles at a hip little eatery near Kabukicho.
A few days ago, I went to another interesting engagement. The 13th meeting of the 鉢の木会勉強会篇, which is a kind of thinktank founded with the sole purpose of creating a kind of 'synergy' among its members, who are all into quite different things (philosophy, music, shooting guns, whatever). There was another, historical group that went by the same name (yes, Mishima WAS involved), and my friends have taken their inspiration from it. Actually, I'm not a member myself, but I was invited there by my friend Ei-Ichi, who is one of the founders (he is also teaching philosophy at an 'Ivy League' universty here in Tokyo, his focus being Hegel) . Two nights ago, they wanted to discuss some of the things that have been happening on Marxy's blog (the Nihonjinron stuff) and also some of the stuff on my blog. So Ei-Ichi, kind soul that he is, did a quick translation of some of the main points, so that Japanese folks who weren't so confident in English could follow what was being said. I've posted the Japanese version of the Marxy stuff below, just in case anyone out there might need it. Feel free to use it as you will. Post your feedback here, please. Thanks Ei-Ichi!
----------
第13回鉢の木会勉強会篇
「ロバートとマルキシーの日本論」
野尻英一
04.12.27
Robert の 'GlitchSlapTko' http://glitchslaptko.blogspot.com/
Marxy の 'Neomarxisme' http://www.pliink.com/mt/marxy/
Momus の 'Click opera' http://www.livejournal.com/users/imomus/
1. マルキシー(Marxy)のBlogサイト「Marxisme」より、「A Last Defence」と
題されたマルキシーのテキスト(超訳) November 12, 2004
「最後の弁明」
ここのところ、私の日本観について攻撃がなされてきた。私が日本を「憎んでい
る」だとか、比較の仕方が「自民族中心主義的」だとかいう批判である。(奇妙
なことにもっともはげしい非難はすべて日本に住んでいない日本ファンから来て
いる。さらに支持票のすべてはこのまっとうな島国の住民から来ている。)私は
そうした批判は歓迎する。私は自分のエッセイでは独断論を展開するのではなく
、対話を目指しているからである。今回の私に対する非難の一斉射撃は、私自身
の立場を改め、発展させる助けになるだろう。
ここで、日本についての私の立場を明確にするために、私の基本的な見解をリス
トアップしておく。
1)「日本的文化」と思われているものの大半が、19世紀における西欧思想の流
入の後に生み出されている。その中には、終身雇用、国家神道信仰、ハローキテ
ィー的幼児的文化、日常的な白米摂取、社会経済システムを過剰に規制する込み
入った法体系などが含まれる。私は慶応大学と早稲田大学の合気道の試合を見に
行ったことがある。それは非常にきびしくかつ「伝統的」なイベントだった。日
本人の男性たちが19世紀プロシアの制服に身を包み、応援と校歌の斉唱を指導し
ていた。それらはすべて19世紀ドイツの教会聖歌だった。もしわれわれがあらゆ
る文化を人工的に生み出された構造の所産として考えるならば、ある文化と行為
を強制し形づくっている構造を批判したからといって自民族中心主義であると言
うことにはならない。
2)日本は経済的に斜陽である。私が書物で読んだかぎり、ここ日本での最近の
経済の伸びを、将来の復興の良い兆しを示すものだと考えている人は誰もいない
ようである。最近の状況は、中国経済の過熱の一時的な揺り戻しにすぎない。こ
れは若者の小遣い的には厳しい状況である。日本のレコード業界が毎年一割のペ
ースで縮小を見せていることはこれと無関係ではないだろう。日本の社会経済的
システムはすべて国家が高度経済成長状態に常時あることを前提として形成され
ており、この体制は日本が直面している現在の状況からの復興には全く適してい
ない。この体制は、エコノミストや学者がもっとまともな社会政策を提起するこ
とによってのみ批判されうるだろう。それに関して言えば、私はずっと日本的体
制のもっとも良い部分、賃金の社会的な平等性、高度に適合した人的資本などの
長所を生かさないような体制は疑問であると、言い続けてきた。
3)日本の文化は権力を握った権威主義的なエリートによって生み出されてきた
。マルクス主義に傾倒している者は拒否するかも知れない。しかし、日本は50年
前まで実際に権威主義的な政府を持っていたし、民主主義の思想的な土台につい
ては自前のものはごくわずかしかなかった。教育や公共政策、行政的な説明責任
や商業を指導する機関の大半が、あからさまな帝国主義的な内容はぬぐい去って
はいるものの、わずかな修正だけで実質以前の帝国主義と同じ内容を保持してい
る。日本人は「批判はしない」。なぜなら批判することは日本的ではないからだ
、と日本人は言う。しかし、批判表明の欠如によっていったい誰が得をするとい
うのだろう。まず第一に、政府官僚は誰に対しても責任を持つ必要がなくなる。
企業も得をするだろう。(欠陥製品などについて)クレームをつける消費者は、
世界の他の地域と比べると日本では驚くほど少ない。集中統制主義の文化は、も
し政府とマスコミがその利潤への信頼を食い物にしているという事実がなければ
、まったくすばらしいものである。行儀の良い子供の集まった部屋では、いじめ
っ子たちが行動計画を決める。
4)私が日本の衰退をペシミスティックに喜んでいるのは、未来を楽観している
からである。カール・マルクスと同じように。55年体制はもはや日本では機能し
ない。私は55年体制は解体されるべきだと思っている。官僚たちは権力にしがみ
つき、システムの腐敗に寄生している。彼らはけっして自発的にはものごとを変
えようとしないだろう。しかしながら、日本の衰退はもしかすると、選挙で選ば
れる政府に日本の国民が変化を要求することにつながるかもしれないし、そうな
れば新しい血が入ることで21世紀に適合したシステムが再構築されるかも知れな
い。田中康夫は長野県で革新的なことを実行しており(たとえば手始めに記者ク
ラブの解体など)、広く公の支持を得ている。慣性はこの国では強い、しかし、
状況が悪くなればなるほど、大衆を動員するチャンスが大きくなる、はずだ。
2.「A Last Defence」へのモーマス(Momus)のコメント(超訳)November 13,
2004
1)「日本的文化」と思われているものの大半が、19世紀における西欧思想の流
入の後に生み出されている。
うわ、文化の弁証法にはまりこんじまったかんじだな。思うんだけど、日本が世
界に対して教える立場にあると言える、本当に魅力的な部分というのは、外来的
な要素を完全に自分たちのものにしてしまうその仕方にあるんじゃないか。日本
語には英語からの外来語がやまほどあるけど、そのほとんどはネイティブにはわ
からないよ。日本語を勉強するときには、外来語を日本語としてもう一度学ばな
きゃならない。それは占有主義(Appropriationism)に匹敵するぐらい、日本人
にとってはほとんど一つの芸術様式になっている、と言っていい。魅力と敵意、
感嘆と皮肉の興味深い混合、一つの「肯定の皮肉主義」と言えるものを内包した
ものだね。英語圏の文化が、日本文化と同じようにゆたかな両義性(冗長性)に
おいて他の文化に向かうことがないっていうのは、ぼくはほんとうに残念なこと
だと思うね。
2)日本は経済的に斜陽である。
でも、経済的な成長というのは本当に究極目的なのかな。日本の今の状態はほぼ
横ばいで、衰退でも成長でもないよ。個人的には、ぼくはスローライフ的な考え
方は全面肯定だな。ぼくたちは実際、もっと生活を楽しむことに時間を割いて快
楽主義的になることができるってことだ。サカモトは、日本は美しい三等国にな
るのがいい、と言ったよ。もしそうなって、そして欧米も後を追うようなことに
なれば、君の却下するフリーターも、実はぼくらに教えてくれることがたくさん
あることになるね。
3)日本の文化は権力を握った権威主義的なエリートによって生み出されてきた
。
もし日本に、政治家の政治に満足していない人がそんなにたくさんいるなら、ぼ
くらにはわかると思うけどな。ぼくはそんなの感じたことはないよ。ぼくにわか
っているのは、日本では人びとはほとんどの場合ノンポリで生きていて、ただ日
本では平和と環境については積極的に行動する人がたくさん見られる、というこ
とだね。まあ日本では、ぼくたちが知っているような政治は存在しないね。実際
、ぼくにとってはそれはかなり爽快なことだったけど。その反面、ぼくは日本で
はインターネットなしで過ごしたことはないよ。つまり、望むときにボタン一つ
で仲間の外人たちと政治的な議論ができるネットなしではね。
きみは、政治を追求するがゆえに日本を脱出した日本人というのを聞いたことが
あるかい? 本当にディベートや選挙活動に関わった日本人は? ぼくはパリのユ
ネスコで働いている日本人を何人か知っているけど、彼らは政治的な事柄よりも
文化的な事柄に熱心だ。今年、パリのユネスコビルにそこで働いている日本人の
友達と一緒に入っていったことがあるけど、門のところでユネスコにおける待遇
改善を求めてストライキをしている清掃業者たちのデモを通り抜けなきゃならな
かった。その友達は完全に彼らを無視していたよ。でも彼女は、タリバンが破壊
した仏像については非常に熱心だったし、ユネスコに立てられたばかりの安藤座
禅堂についても夢中だったよ。
4)日本の衰退はもしかすると、日本の国民が選挙で選ばれる政府に変化を要求
することにつながるかもしれないし、そうなれば新しい血が入ることで21世紀に
適合したシステムが再構築されるかも知れない。
個人的にははなはだ疑問だね。ぼくたちが大変動をうまく乗り切ったとして、21
世紀には、すべての国家は平和で、日本みたいにどこか女性的な消費文化の国に
なっていて、そうした文化が「新しい政治」になっているほうがずっと可能性が
あると思う。もしそうなるとすれば、ぼくらがいま日本で目にしているものを10
年後、20年後の欧米で目にすることになるかもしれない。マルキシー、ぼくらは
未来を覗くために君のblogを読んでいるのさ。没落する帝国の終末をかいま見る
ためじゃなくね。
3. マルキシーによるモーマスへの反論 November 13, 2004
1)日本文化は外国文化を受容する、それはすばらしいことだ、しかし、それな
ら、なぜ彼らはこうした輸入を伝統的な日本文化の背後に隠すのか。批判と学識
とはともにこうした(日本文化は外国文化を受容するという)神話を解体するの
に有効なはずだ。
2)経済的な成長は究極目的ではない。しかし、高収入を平等に分配する責任は
ある。もし日本が成長をとめるなら、収入の不平等が急激に広がるだろう。フリ
ーターの若者たちとサラリーマンを比べてみよ。これ一つをとっても、戦後社会
構造の大きな変化にあたる。「フリーター」は、欧米では「経済的な無責任状態
」と呼ばれるものだ。彼らは親に養ってもらっていて、将来の安定性に関しては
絶望的な状態にある。アメリカでは、どんなときでも、能力のある者は大企業へ
の就職が得られる。日本では、雇用制度はいまだに大卒資格と直接に結びついて
いる。だからフリーター世代の最大の夢は、店長や中下流階級の何かになること
なのである。今後われわれは、大量の中上流階級の子弟が中下流階級に移動する
のを目にすることになるだろう。それとともに、日本は消費者社会へと移行する
。
3)やかましいマルクス主義者にはなりたくはないが、しかしこれについて言え
ば、日本人がノンポリなのは彼らがノンポリになるように教える教育とメディア
のシステムを持っているからなのではないのか? 日本人の政治への無関心は、第
一に彼らが学校で批判的、懐疑的になることを教わったことがないからであり、
第二に政治的な行動はメディアがそれを報道しないように義務づけられているた
めに舞台裏で起こっているためである。このような構造をもった社会に生きてい
れば、政治的な言説も少なくなろうというものだ。60年代には日本ではものごと
は不安定だったので、大きな政治運動があった。しかし、ひとたび、社会主義者
たちが敗北し、国が豊かになると、次の世代はたちまちそれを忘却したのである
。
4)私も日本こそが未来であったならばよいと思う。しかし、私が目にするのは
障害物の山と凋落の傾向だけである。もう一度言うが、私はかつてまったく日本
の支持者だったし、よろこんで日本のやわらかい急所のいくらかは見逃しもしよ
う。しかし、いま現に私は、私がかつてとても好きだった文化産業の崩壊のさな
かにいる。
野尻
A few days ago, I went to another interesting engagement. The 13th meeting of the 鉢の木会勉強会篇, which is a kind of thinktank founded with the sole purpose of creating a kind of 'synergy' among its members, who are all into quite different things (philosophy, music, shooting guns, whatever). There was another, historical group that went by the same name (yes, Mishima WAS involved), and my friends have taken their inspiration from it. Actually, I'm not a member myself, but I was invited there by my friend Ei-Ichi, who is one of the founders (he is also teaching philosophy at an 'Ivy League' universty here in Tokyo, his focus being Hegel) . Two nights ago, they wanted to discuss some of the things that have been happening on Marxy's blog (the Nihonjinron stuff) and also some of the stuff on my blog. So Ei-Ichi, kind soul that he is, did a quick translation of some of the main points, so that Japanese folks who weren't so confident in English could follow what was being said. I've posted the Japanese version of the Marxy stuff below, just in case anyone out there might need it. Feel free to use it as you will. Post your feedback here, please. Thanks Ei-Ichi!
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第13回鉢の木会勉強会篇
「ロバートとマルキシーの日本論」
野尻英一
04.12.27
Robert の 'GlitchSlapTko' http://glitchslaptko.blogspot.com/
Marxy の 'Neomarxisme' http://www.pliink.com/mt/marxy/
Momus の 'Click opera' http://www.livejournal.com/users/imomus/
1. マルキシー(Marxy)のBlogサイト「Marxisme」より、「A Last Defence」と
題されたマルキシーのテキスト(超訳) November 12, 2004
「最後の弁明」
ここのところ、私の日本観について攻撃がなされてきた。私が日本を「憎んでい
る」だとか、比較の仕方が「自民族中心主義的」だとかいう批判である。(奇妙
なことにもっともはげしい非難はすべて日本に住んでいない日本ファンから来て
いる。さらに支持票のすべてはこのまっとうな島国の住民から来ている。)私は
そうした批判は歓迎する。私は自分のエッセイでは独断論を展開するのではなく
、対話を目指しているからである。今回の私に対する非難の一斉射撃は、私自身
の立場を改め、発展させる助けになるだろう。
ここで、日本についての私の立場を明確にするために、私の基本的な見解をリス
トアップしておく。
1)「日本的文化」と思われているものの大半が、19世紀における西欧思想の流
入の後に生み出されている。その中には、終身雇用、国家神道信仰、ハローキテ
ィー的幼児的文化、日常的な白米摂取、社会経済システムを過剰に規制する込み
入った法体系などが含まれる。私は慶応大学と早稲田大学の合気道の試合を見に
行ったことがある。それは非常にきびしくかつ「伝統的」なイベントだった。日
本人の男性たちが19世紀プロシアの制服に身を包み、応援と校歌の斉唱を指導し
ていた。それらはすべて19世紀ドイツの教会聖歌だった。もしわれわれがあらゆ
る文化を人工的に生み出された構造の所産として考えるならば、ある文化と行為
を強制し形づくっている構造を批判したからといって自民族中心主義であると言
うことにはならない。
2)日本は経済的に斜陽である。私が書物で読んだかぎり、ここ日本での最近の
経済の伸びを、将来の復興の良い兆しを示すものだと考えている人は誰もいない
ようである。最近の状況は、中国経済の過熱の一時的な揺り戻しにすぎない。こ
れは若者の小遣い的には厳しい状況である。日本のレコード業界が毎年一割のペ
ースで縮小を見せていることはこれと無関係ではないだろう。日本の社会経済的
システムはすべて国家が高度経済成長状態に常時あることを前提として形成され
ており、この体制は日本が直面している現在の状況からの復興には全く適してい
ない。この体制は、エコノミストや学者がもっとまともな社会政策を提起するこ
とによってのみ批判されうるだろう。それに関して言えば、私はずっと日本的体
制のもっとも良い部分、賃金の社会的な平等性、高度に適合した人的資本などの
長所を生かさないような体制は疑問であると、言い続けてきた。
3)日本の文化は権力を握った権威主義的なエリートによって生み出されてきた
。マルクス主義に傾倒している者は拒否するかも知れない。しかし、日本は50年
前まで実際に権威主義的な政府を持っていたし、民主主義の思想的な土台につい
ては自前のものはごくわずかしかなかった。教育や公共政策、行政的な説明責任
や商業を指導する機関の大半が、あからさまな帝国主義的な内容はぬぐい去って
はいるものの、わずかな修正だけで実質以前の帝国主義と同じ内容を保持してい
る。日本人は「批判はしない」。なぜなら批判することは日本的ではないからだ
、と日本人は言う。しかし、批判表明の欠如によっていったい誰が得をするとい
うのだろう。まず第一に、政府官僚は誰に対しても責任を持つ必要がなくなる。
企業も得をするだろう。(欠陥製品などについて)クレームをつける消費者は、
世界の他の地域と比べると日本では驚くほど少ない。集中統制主義の文化は、も
し政府とマスコミがその利潤への信頼を食い物にしているという事実がなければ
、まったくすばらしいものである。行儀の良い子供の集まった部屋では、いじめ
っ子たちが行動計画を決める。
4)私が日本の衰退をペシミスティックに喜んでいるのは、未来を楽観している
からである。カール・マルクスと同じように。55年体制はもはや日本では機能し
ない。私は55年体制は解体されるべきだと思っている。官僚たちは権力にしがみ
つき、システムの腐敗に寄生している。彼らはけっして自発的にはものごとを変
えようとしないだろう。しかしながら、日本の衰退はもしかすると、選挙で選ば
れる政府に日本の国民が変化を要求することにつながるかもしれないし、そうな
れば新しい血が入ることで21世紀に適合したシステムが再構築されるかも知れな
い。田中康夫は長野県で革新的なことを実行しており(たとえば手始めに記者ク
ラブの解体など)、広く公の支持を得ている。慣性はこの国では強い、しかし、
状況が悪くなればなるほど、大衆を動員するチャンスが大きくなる、はずだ。
2.「A Last Defence」へのモーマス(Momus)のコメント(超訳)November 13,
2004
1)「日本的文化」と思われているものの大半が、19世紀における西欧思想の流
入の後に生み出されている。
うわ、文化の弁証法にはまりこんじまったかんじだな。思うんだけど、日本が世
界に対して教える立場にあると言える、本当に魅力的な部分というのは、外来的
な要素を完全に自分たちのものにしてしまうその仕方にあるんじゃないか。日本
語には英語からの外来語がやまほどあるけど、そのほとんどはネイティブにはわ
からないよ。日本語を勉強するときには、外来語を日本語としてもう一度学ばな
きゃならない。それは占有主義(Appropriationism)に匹敵するぐらい、日本人
にとってはほとんど一つの芸術様式になっている、と言っていい。魅力と敵意、
感嘆と皮肉の興味深い混合、一つの「肯定の皮肉主義」と言えるものを内包した
ものだね。英語圏の文化が、日本文化と同じようにゆたかな両義性(冗長性)に
おいて他の文化に向かうことがないっていうのは、ぼくはほんとうに残念なこと
だと思うね。
2)日本は経済的に斜陽である。
でも、経済的な成長というのは本当に究極目的なのかな。日本の今の状態はほぼ
横ばいで、衰退でも成長でもないよ。個人的には、ぼくはスローライフ的な考え
方は全面肯定だな。ぼくたちは実際、もっと生活を楽しむことに時間を割いて快
楽主義的になることができるってことだ。サカモトは、日本は美しい三等国にな
るのがいい、と言ったよ。もしそうなって、そして欧米も後を追うようなことに
なれば、君の却下するフリーターも、実はぼくらに教えてくれることがたくさん
あることになるね。
3)日本の文化は権力を握った権威主義的なエリートによって生み出されてきた
。
もし日本に、政治家の政治に満足していない人がそんなにたくさんいるなら、ぼ
くらにはわかると思うけどな。ぼくはそんなの感じたことはないよ。ぼくにわか
っているのは、日本では人びとはほとんどの場合ノンポリで生きていて、ただ日
本では平和と環境については積極的に行動する人がたくさん見られる、というこ
とだね。まあ日本では、ぼくたちが知っているような政治は存在しないね。実際
、ぼくにとってはそれはかなり爽快なことだったけど。その反面、ぼくは日本で
はインターネットなしで過ごしたことはないよ。つまり、望むときにボタン一つ
で仲間の外人たちと政治的な議論ができるネットなしではね。
きみは、政治を追求するがゆえに日本を脱出した日本人というのを聞いたことが
あるかい? 本当にディベートや選挙活動に関わった日本人は? ぼくはパリのユ
ネスコで働いている日本人を何人か知っているけど、彼らは政治的な事柄よりも
文化的な事柄に熱心だ。今年、パリのユネスコビルにそこで働いている日本人の
友達と一緒に入っていったことがあるけど、門のところでユネスコにおける待遇
改善を求めてストライキをしている清掃業者たちのデモを通り抜けなきゃならな
かった。その友達は完全に彼らを無視していたよ。でも彼女は、タリバンが破壊
した仏像については非常に熱心だったし、ユネスコに立てられたばかりの安藤座
禅堂についても夢中だったよ。
4)日本の衰退はもしかすると、日本の国民が選挙で選ばれる政府に変化を要求
することにつながるかもしれないし、そうなれば新しい血が入ることで21世紀に
適合したシステムが再構築されるかも知れない。
個人的にははなはだ疑問だね。ぼくたちが大変動をうまく乗り切ったとして、21
世紀には、すべての国家は平和で、日本みたいにどこか女性的な消費文化の国に
なっていて、そうした文化が「新しい政治」になっているほうがずっと可能性が
あると思う。もしそうなるとすれば、ぼくらがいま日本で目にしているものを10
年後、20年後の欧米で目にすることになるかもしれない。マルキシー、ぼくらは
未来を覗くために君のblogを読んでいるのさ。没落する帝国の終末をかいま見る
ためじゃなくね。
3. マルキシーによるモーマスへの反論 November 13, 2004
1)日本文化は外国文化を受容する、それはすばらしいことだ、しかし、それな
ら、なぜ彼らはこうした輸入を伝統的な日本文化の背後に隠すのか。批判と学識
とはともにこうした(日本文化は外国文化を受容するという)神話を解体するの
に有効なはずだ。
2)経済的な成長は究極目的ではない。しかし、高収入を平等に分配する責任は
ある。もし日本が成長をとめるなら、収入の不平等が急激に広がるだろう。フリ
ーターの若者たちとサラリーマンを比べてみよ。これ一つをとっても、戦後社会
構造の大きな変化にあたる。「フリーター」は、欧米では「経済的な無責任状態
」と呼ばれるものだ。彼らは親に養ってもらっていて、将来の安定性に関しては
絶望的な状態にある。アメリカでは、どんなときでも、能力のある者は大企業へ
の就職が得られる。日本では、雇用制度はいまだに大卒資格と直接に結びついて
いる。だからフリーター世代の最大の夢は、店長や中下流階級の何かになること
なのである。今後われわれは、大量の中上流階級の子弟が中下流階級に移動する
のを目にすることになるだろう。それとともに、日本は消費者社会へと移行する
。
3)やかましいマルクス主義者にはなりたくはないが、しかしこれについて言え
ば、日本人がノンポリなのは彼らがノンポリになるように教える教育とメディア
のシステムを持っているからなのではないのか? 日本人の政治への無関心は、第
一に彼らが学校で批判的、懐疑的になることを教わったことがないからであり、
第二に政治的な行動はメディアがそれを報道しないように義務づけられているた
めに舞台裏で起こっているためである。このような構造をもった社会に生きてい
れば、政治的な言説も少なくなろうというものだ。60年代には日本ではものごと
は不安定だったので、大きな政治運動があった。しかし、ひとたび、社会主義者
たちが敗北し、国が豊かになると、次の世代はたちまちそれを忘却したのである
。
4)私も日本こそが未来であったならばよいと思う。しかし、私が目にするのは
障害物の山と凋落の傾向だけである。もう一度言うが、私はかつてまったく日本
の支持者だったし、よろこんで日本のやわらかい急所のいくらかは見逃しもしよ
う。しかし、いま現に私は、私がかつてとても好きだった文化産業の崩壊のさな
かにいる。
野尻